3月11日の大震災は、上棟予定の住宅が都内であって、十階の事務所で出かける準備をしていたところに、大きく「ぐらっ」ときました。棚からものがいくつか飛び出し、自分の身を支えながら手で押さえなければならない有様でした。上棟中の現場が心配になり、連絡がとれず、何度か電話かけているうちに、通じたのは4時頃でした。現場のクレーンが傾きかけ、棟の上の職人も揺れがひどく、とりあえずその段階で建て方を止め、仮筋交いで柱や梁を固めて引き上げたとのことでした。
その後方々に連絡を取り、状況を把握し、その日は自宅に帰ることを諦め、流せなくなるトイレのために水をできるだけ貯め、食料も購入できるぶんだけ用意し、やれる仕事をしていました。夜中、パソコンの動画であちこちの震災の映像を眺めているうちに、事務所の者が「山大の工場が流されている!」と叫びました。その映像は確かに3日前に協議していた事務所の屋根が映し出され、乾燥庫も工場も一緒に津波で覆われていました。電話で連絡を取りましたがもちろん通じません。これは大変な被害が出る。工場も流されどうなるかわからない。その後数日間はテレビに釘付けになり、流されてくる映像を見ながら、自分は何をすべきなのだろう、建築屋として何ができるのだろう、と考えていました。これはとんでもなく多くの被災者が出るだろう、仮設住宅も数多く必要になるだろう。山大と一緒に開発しようとした、接着剤レスの集成材も被災した状況では、それどころではないだろう、自分が考えるしかありません。渡したつもりのバトンは返されたのだと思えてきました。
開発物語